十年一昔

はてなダイアリーがサービス停止するとのことで、遠い昔に開設して放置していたはてなダイアリーはてなブログに移行した。

それにしても十年一昔とはよく言ったもので、かつてはてなダイアリーが隆盛を極めていた頃は様々なWebサービスが百花繚乱していた。Web2.0なるものがまことしやかに喧伝され、我々の未来はWebと共にあり、といった感があった。

2018年の現在、我々を取り巻く環境は一変した。

日常のコミュニケーションはLINEで、インスタ映えを求め彷徨う人々、対立と憎悪を増幅する火薬庫と化したTwitter、その尻馬に乗る旧来メディア。

こういう未来は誰も望んでいなかっただろうし、当事者の一員である自分としても現状に戸惑いを感じる。

刹那的なフレーズが飛び交う昨今のSNS事情というのは知的に健全とは言い難く、人々の語彙力、それを司る思考力は劣化の一途を辿っているのではなかろうか。

自分自身、そのような現状に流されているのがはっきりと自覚できている。

だからこそ、リハビリもかねて少しばかりブログを書いてみた次第だ。

古ぼけたピアノの鍵盤に指を置き、記憶を辿りながら旋律を奏でるが如く。

他人を思いやれない者同士がお互いを監視する社会

この春から所属部門のリーダーになる手前、人とシステムとのあり方について考える時間が増えてきた。
その関連で。

MIYADAI.com Blog - 安藤哲也(Fathering Japan 代表)との子育てトークイベントに出ました

■「他人の視線に敏感であれ」という場合、リースマンの「孤独な群衆」よろしく内的確かさを欠くがゆえに他者の視線を気にするあり方を、推奨する訳にはいかない。そうした自己肯定感を欠いた――自己価値を信じられない――あり方は最低だ。そう私は信じる。
■信仰者の如き内的確かさに支えられたものであれ、共同体の共通感覚(コモンセンス)に支えられたものであれ、安定した自己肯定感がベースであるのが良い。その上で、決して不安の埋め合せのためでなく、他者の視線や立場を取得できることが、必要だろう。

■昨今の日本を席巻するのは「共通感覚を欠くがゆえの過剰な自己関与」と「共通感覚を欠くがゆえの過剰な視線恐怖」だと推定される。双方はコインの表と裏だ。そこにルール&監視を持ち込んでも、自己関与や視線恐怖の傾動そのものが変わる訳じゃない。

■かくして「いかなる意味で他者性に敏感な子供を育てるべきか」という価値観は、「どんな社会が良い社会か」という価値観と表裏一体であることが分かる。その点、僕は「監視によって秩序立つ社会より、内発性によって秩序立つ社会に価値がある」と信じる。

■内発性と自発性は違う。両方とも強制によらない振る舞いを意味するが、損得勘定から他人に優しくするのは、自発性ではあっても、内発性ではない。端的に他人に優しくしたいと思って優しくする表出的(コンサマトリー)な振舞いだけが、内発的だ。

デューイは「内なる光」を埋め込む営みが教育だと考えた。デューイの正統な後継者を辞任するローティも、「内なる光」を埋め込む営みをルソーに倣って「感情教育」と呼んだ上で、推奨する。西洋密教に連なるシュタイナーも基本的には同じ発想だ。

要するに「他人を思いやれない者同士がお互いを監視する社会(システム)=今の日本はクソ」という事なんだろう。
確かに、会社という狭い世界の中でも他人を思いやれない人は多い。あるいは、しぶしぶ他人を思いやっているかのように振舞う人もいたりする。後者は、特に新入社員に多い。
人間関係がギスギスしていては、何事もうまくいかない。恐怖や憎悪、自己関与への没頭=無関心といった感情は、システムをいとも簡単に暴走させる。
だから、逆説的なんだけど、システムが暴走しないようにするためには人間関係を円滑にする必要がある、という事になる。
んでもって人間関係を円滑にするためには、思いやり=内発性や「内なる光」を小さいころから教育しておく必要がある、という訳。
難しいなぁ。

feedpath Rabbitサービス終了

【重要】feedpath Rabbitサービス終了のお知らせ
http://team.feedpath.jp/info/cat113/feedpath_rabbit.html

2006年1月から長らくご愛顧いただいておりましたfeedpath Rabbitですが、2008年4月30日(水)をもってサービスを終了させていただく運びとなりました。

ちょwww突然すぎるだろwwww
まあ小川さんが抜けてからサービス展開がグダグダもいいところだったからな・・・広告収入ベースで運営するのも無理があっただろうし。
SaaS事業強化が表向きの理由になっているが、まあ単純に不採算事業の整理だろう。
だいたい、サイボウズ自体が採算ベースに乗らない事業が多すぎる。株価もいい加減アレだし、大鉈を振るう時が来たのかも。

で、引越し先はどこにするか。Google Readerでも使うか・・・
自宅のWiiから簡単にアクセスできれば何でも良いんだけど。

キャラとキャラクタについて

これを読んでの感想

MIYADAI.com Blog - アートについての原稿です。
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=626

ポストモダンというと、J・F・リオタールの「大きな物語が失われ小さな物語が並立する」といった言葉を想起しよう。だがこの紋切型には意味がない。結論的にはモダンがポストモダンになるとは〈システム〉が全域化して〈生活世界〉が空洞化することを言う。

私が何に同一化しようと試みても,キャラとキャラクターの二重性は消せない。キャラの向こうにキャラクターが覗き見える。それがある種の猥褻感を与える。猥褻とは、性的なものが露出してはいけない空間に、不用意に性的なものが露出した際に生じる感情だ。

最終的に残る<生活世界>は、他ならぬ<腐敗する臓器としての己>なんだな、と思う。<腐敗する臓器としての己>=キャラクタと<システムの一部としての己>=キャラとの微妙なズレが奇妙な懐かしさやエロティシズムを生み出すのだろう。そしてそれを我々はポエジーと呼ぶのかもしれない。

タリス・スコラーズ

帰宅後、録画しておいたBSハイビジョン放映のタリス・スコラーズ演奏会を視聴。
さすがに世界最高峰と呼ばれるだけあって、素晴らしいハーモニー。
特に女声高音部の、透き通った響きには心を揺さぶられる。

せっかく宗教音楽聴いてるんだから、ということで久々に聖書引っ張り出して読んでみたけど、キリスト教ってつくづく「外なる救済」の宗教だなあ、と感じた。
で、その外なる救済という概念を補強し「在るかのように」するために、様々な仕掛けが発明されてきた。タリス・スコラーズが奏でる一連の楽曲もその一つなんだな、と。

そんな事をとりとめも無く考えながら、一切空一切空、と呟いてみた春の夜。