pochitto’s blog

詩、雑感などを記しています。

所感

久々に某所を覗いてみたが、あまりの惨状に思わず吹いてしまった。
システム内部に根本的な欠陥を抱えているから、内紛の発生もむべなるかなといった所か。
外部コンサルでも雇って、もうちっとスマートなシステムにすりゃあいいのに。
あ、そんな事したら管理人が放逐されちまうか。

生産性を巡る論争?について最後に一言

冷静に考えれば、山形氏も分裂勘違い氏も「労組作ってベア実現を!」という、前時代的な願望を述べているに過ぎない。限界生産性も平均生産性(笑)も一切関係ない。経済学用語を適当にアレンジして、「経済学者に勝った!オレ最強!」と勝手に勝利宣言したに過ぎない。もう関わらないでおこう。やれやれ。

「わかりやすさ」のみで判断する=テレビ脳

論理の正確さを一切無視して、「わかりやすさ」だけを捉えて支持を表明する人が多すぎる。
テレビ脳ってヤツでしょうか。あるある見て「おーすごい」とか呟いちゃう人たちなんでしょうか。
あるいは、「みんなが支持してるから良いものに違いない」と思っちゃう人たちなんでしょうか。
間違った情報を「わかりやすく」提示される機会が増えているので、自戒をこめて。
特にココとか、釣りにしても酷すぎる。自称アルファブロガーの底の浅さを垣間見た→http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20070215/1171504603


ところで、はてなブックマークについて。
ブックマークという行為が投票行為に限りなく近づいているので、かなり危険だと思う。
勘違いしたバカに「俺は世論を動かせる!」などという根拠不明の自信をつけさせる事に繋がる。
マイナスポイントをつけられるようになればいいのだが。

若者のモチベーションを削ぎ続ける年功序列制

ホワイトカラーの熟年と若者は、年功序列によって時間当たりの生産性と賃金とが逆比例した状態に置かれている。
パソコンが普及した今、若者の生産性は熟年のそれに比して高い。同じ報告書を作成するのに、熟年が要する半分の時間で完了してしまう。にも関わらず、若者の賃金は低く据え置かれている。
サービス残業は常態化し、WEを待つまでも無く割増賃金は一律カットされている。
かつての若者は将来のインフレに期待する事ができた。放っておいても賃金は上がり、それは現在の、理不尽ともいえる労苦を補うのに十分だった。しかし時代は移り、長く続くデフレにより賃金の定期昇給は幻想となった。にも関わらず年功序列の仕組みだけは残り、熟年層は高水準の賃金を享受し、若者は低水準の賃金に甘んじることとなった。
若者がいくら生産性を上げようとも、自らが組み込まれた年功序列の枠組みから逸脱することはできない。それは組織からの離脱を意味し、リスクを伴う。労働市場の流動化は進みつつあるが、それは非正規雇用のみにあてはまる。労働市場に身を投じれば、一層賃金が下がる可能性が高い。ただでさえ低賃金に甘んじている若者が、進んでリスクを取るとは考えにくい。
ホワイトカラーにおける、こうした熟年と若者のいびつな逆転関係は今後も続いていくだろう。

いわゆる2007年問題によって一定数の熟年は退職するだろうが、年金問題に乗じて再雇用を選択する熟年もかなりの割合で存在するだろう。そうなった時、彼らは現在のポストをあっさりと手放すだろうか?やはり、年功序列の枠組みは当分の間消えそうにない。
置き換え可能な労働力は依然として序列下位の者=若者であり、熟年はその対象になりにくい。つまり高賃金の事務職は極めて流動性が低い状態にあると言える。そのことが、若者のモチベーションをより一層削いでいるに違いない。日本におけるホワイトカラーの低生産性問題も、実はこのようなところから出発しているのかもしれない。

ファンタスティック・プラネット

まったくの偶然で、BSハイビジョンで深夜に放送していた「ファンタスティック・プラネット」を観た。
いやはや、今の今までこれほどの作品を知らなかった自分が恥ずかしい・・・凄まじすぎ。


中世の銅版画を思わせる、パースの狂った画面構成。真っ赤に見開かれた眼の、青肌の巨人。そして軽々と踏み潰される人々。人々に思考を伝達するレシーバー。暗闇に光る眼。ロケット墓場へ続くエスカレータ。無頭石像の惑星へ飛び去る精神球。
もう完璧に統合○調症患者の内面世界です、本当にありg(ry
ってかコレ、子供に見せたら一生トラウマ残るぜ。


チェコとフランスの合作だそうで、こんなカルトアニメの製作にGOを出しちゃう東欧諸国の寛大さは侮りがたし。

ロリペドに福音、なわけねーだろ

日本における仏像は、赤ん坊の寝顔をモチーフにしている、と思う。
印度中国の仏像は明らかに成人。陰毛でも生えてんじゃねーかっつーぐらい。
んで、日本文化の根っこには幼児崇拝が横たわってんだろうなー、と思ったり。学問上の位置付けはよく知らんけど、地蔵とかまさにソレありきでしょ。
何だろうねこの差は。無垢に聖性を置くか、煩悩の果ての悟りに聖性を置くか、の違いだろうか。
その意味からすれば、日本における幼児性愛は信仰の一形態ではないか、とも考えられ・・・ねーよw

雨雲に手が届きそうな晩秋の朝に考えた事。