pochitto’s blog

詩、雑感などを記しています。

他人を思いやれない者同士がお互いを監視する社会

この春から所属部門のリーダーになる手前、人とシステムとのあり方について考える時間が増えてきた。
その関連で。

MIYADAI.com Blog - 安藤哲也(Fathering Japan 代表)との子育てトークイベントに出ました

■「他人の視線に敏感であれ」という場合、リースマンの「孤独な群衆」よろしく内的確かさを欠くがゆえに他者の視線を気にするあり方を、推奨する訳にはいかない。そうした自己肯定感を欠いた――自己価値を信じられない――あり方は最低だ。そう私は信じる。
■信仰者の如き内的確かさに支えられたものであれ、共同体の共通感覚(コモンセンス)に支えられたものであれ、安定した自己肯定感がベースであるのが良い。その上で、決して不安の埋め合せのためでなく、他者の視線や立場を取得できることが、必要だろう。

■昨今の日本を席巻するのは「共通感覚を欠くがゆえの過剰な自己関与」と「共通感覚を欠くがゆえの過剰な視線恐怖」だと推定される。双方はコインの表と裏だ。そこにルール&監視を持ち込んでも、自己関与や視線恐怖の傾動そのものが変わる訳じゃない。

■かくして「いかなる意味で他者性に敏感な子供を育てるべきか」という価値観は、「どんな社会が良い社会か」という価値観と表裏一体であることが分かる。その点、僕は「監視によって秩序立つ社会より、内発性によって秩序立つ社会に価値がある」と信じる。

■内発性と自発性は違う。両方とも強制によらない振る舞いを意味するが、損得勘定から他人に優しくするのは、自発性ではあっても、内発性ではない。端的に他人に優しくしたいと思って優しくする表出的(コンサマトリー)な振舞いだけが、内発的だ。

デューイは「内なる光」を埋め込む営みが教育だと考えた。デューイの正統な後継者を辞任するローティも、「内なる光」を埋め込む営みをルソーに倣って「感情教育」と呼んだ上で、推奨する。西洋密教に連なるシュタイナーも基本的には同じ発想だ。

要するに「他人を思いやれない者同士がお互いを監視する社会(システム)=今の日本はクソ」という事なんだろう。
確かに、会社という狭い世界の中でも他人を思いやれない人は多い。あるいは、しぶしぶ他人を思いやっているかのように振舞う人もいたりする。後者は、特に新入社員に多い。
人間関係がギスギスしていては、何事もうまくいかない。恐怖や憎悪、自己関与への没頭=無関心といった感情は、システムをいとも簡単に暴走させる。
だから、逆説的なんだけど、システムが暴走しないようにするためには人間関係を円滑にする必要がある、という事になる。
んでもって人間関係を円滑にするためには、思いやり=内発性や「内なる光」を小さいころから教育しておく必要がある、という訳。
難しいなぁ。