pochitto’s blog

詩、雑感などを記しています。

いまさらながら、一元論だとか二元論だとか

フレーブニコフについて様々な文献を読み漁る。知れば知るほど親近感がなお募る。イワノフから継承した「分断された精神の統合」というテーゼは、オレが目指す方向と非常に合致するのだ。
ところで、これまで無自覚だったが、傍から見るとオレはどうやら二元論者らしい。
昨日たまたま視聴したNHK新日曜美術館横山大観(海山十題)の特集が組まれており、これまで食わず嫌いで素通りしてきた横山大観の一面を知ることができた。
大観の言うところの「形象」「霊性」なるものは、そのまま二元論であり、「霊性」が国家主義と結びつけられた過去が、戦後多くの論者によって批判されてきたらしい。旭日と富士というモチーフは、確かに国威発揚にいとも容易く利用されたに違いない。
それはさておき、大観の言うところの「霊性」に、オレは非常に共感を覚えた。それは安易な国家主義、霊魂実在説とは別の次元のものであり、より「本質」に近いもの、「どうしようもなく根源的な何か」に繋がっている、そのようなものだ。どちらかというと、バタイユの「非-知」に近いのかもしれない。要するに、一元論的世界を構成している構造そのものが二元論的なんじゃないか、横山大観のいう「霊性」とはそのようなものではなかろうか。
オレはそのような「霊性」に共感したのだった。
ここまで書いて、「それって構造主義以降の思想潮流そのままじゃん」とツッコミを入れられそうな気がしてきたが、要するにそういう事だ。
その一点において、オレは既存の二元論との一切の同調を拒む。
オレのテーゼはどっちかというと「構造の再発見」になるだろうか。