pochitto’s blog

詩、雑感などを記しています。

言い知れぬ不安

Moleskin Diary「眠れない夜の話」(http://d.hatena.ne.jp/moleskin/20040908#p6)を読んで。

オウム真理教が世の中でフレームアップされていたころには、なぜ東大出の人があんな教義にはまるのかと疑問の声が多く上がったが、教義を信じたからオウム真理教に入信したのではあるまい。別の理由で入信して、教義を信じたのはその後だ。それはたぶん大きくはない、とても小さな理由だろう。とてもパーソナルな、でも大切な何か。それこそ「泣いてくれた」のような。

この一文にギクリとさせられた。と同時に、「悪意ある優しさ」というものの存在を確信し、言い知れぬ不安を感じた。我々の身の回りには、「悪意ある優しさ」が氾濫しているような気がしてきた。
いわゆる「きっかけ」というものは、それこそ記号・シンボル化されて、そこらじゅうにばら撒かれていて、我々がふと心を許すその瞬間をじっと窺っているに違いない。そして我々を底無しの深みへと引きずり込む。
いかなる瞬間も気を抜けず、緊張を強いられる社会。自宅に居てもそうだ。不意の電話、訪問者、メディア、何気なく投げ込まれたチラシ、、、すべてが「きっかけ」を、ほんの少しの優しさを、そして(悲しいことに)幾つかは「悪意ある優しさ」を、我々に掴ませようと押し寄せる。
十数年前、一人暮らしをしていたころ、数日間ひどい鬱状態に陥り、自宅に閉じこもったことがあった。そしてその時、偶然訪問した新興宗教の信者に「あなたの為に祈ります」と言われ、心を強く揺さぶられた。たまたま新興宗教に耐性が付いていたので、何とか理由をつけて追い返したけれど、今にして思えば、それは(意図的であるなしに係らず)「悪意ある優しさ」だったのかもしれない。そう思うとゾッとする。
社会基盤(例えて言えばハードウェア、OS、ミドルウェア、アプリケーション)がどれだけ整備されようとも、「パーソナルな、大切な何か」を求める心を変える事はできない。そこで、際限のない啓蒙によって我々は「きっかけ」を撥ね退けることを、強くなることを余儀なくされる。弱いものは容易に「きっかけ」に気を許し、それが「悪意ある優しさ」であってもそれと知らず、訳も分からぬうちに深みへと引きずり込まれてゆく。


我々は、強くなければならないのか。
弱き者は、救いの名の下になお試練を課せられるのか。


言い知れぬ不安は消えない。