pochitto’s blog

詩、雑感などを記しています。

「凡人」と「非凡な人々」について

これもまた制約条件の違いによる差異に他ならない。非凡な人々が素晴らしい成果を挙げる時、凡人は小さな、あるいは大きな「事件」を起こすことである意味「成果」を挙げる。

事件の被疑者が時として「凡人」なのは、決して偶然ではないと俺は思う。彼らは自ら「制約条件」を変えることで、自らを表現する。
非凡な人々は先天的、あるいは後天的に獲得した有利な制約条件に沿って活動することで、制約条件を増強する。一方「凡人」は、平均以下の制約条件の元で活動する。制約条件を大幅に変更することは並大抵ではないので、その枠に収まり続けることがもっとも経済性の良い=賢い選択となる。ここで、制約条件を大幅に変更したい凡人はどのような活動を行うべきか。イチかバチかの賭けに打って出るのだ。それがどのようなタイミングで、どのようなシチュエーションで行われるかによって、賭けの種類は大きく変わる。いわゆる勉強ができるタイプの凡人は、受験というタイミングで。勉強が苦手なタイプは、その後の人生のどこかのタイミングで、それを行う。言っておくが、勉強が得意だろうが苦手だろうが、その知性に大した違いはない。あるのは制約条件の違い、ただそれだけだ。こうして一部の凡人は「非凡な人々」の仲間入りを果たす。

だが、非凡であるというのは概ね自己満足に過ぎないんじゃなかろうか。俺は見事なまでに凡人で、かつ非凡さに憧れる小市民だ。しかし、実力以上に非凡である必要があるのか、最近疑問を感じるようになってきた。それらはある制約条件がもたらしたささやかな出来事に過ぎず、とやかく言う程の価値も無いように思えてならないのだ。

だが、社会はそれらに価値を付加し続ける。その価値とやらに追随し、その価値を変動させ続ける事、それが凡人に課せられた使命か。んでもって、小さな「事件」でもってささやかな抵抗を見せる、と。
あーこれってこないだ書いた「儀式」っつー詩と限りなくリンクしてるな、今頃気づいたけど。

とにかく、仕事しながらこんな事ばかり考えている今日この頃。


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