pochitto’s blog

詩、雑感などを記しています。

詩とRSSフィード

詩とRSSフィードはなじまない

ネット上のどこを見回してもRSSRSSとやかましい。RSS配信された最新ニュースを元に書きしたためたブログのRSSフィードRSSリーダで読み込んでまたRSS追っかけて、もうそれだけでヘトヘトに疲れてしまいそうだ。
とはいえ、詩人さんもこの時流に置いていかれないようにしなきゃならん。最新情報を発信してもっと知名度を上げたい、ちやほやされたい、あわよくばお零れを頂戴したい、という欲求も根底にある。
だが俺は思う、詩とRSSフィードはなじまない、と。

新着詩だからといって価値が高いわけではない

そもそも新着の詩だからといって、特別な価値があるのか?無い、と断言できる。
流行りものの商品じゃあるまいし、流行遅れとかそういう事があり得るのか?昔々の詩集だってそれなりに需要があるし、クソみたいな新着詩なんて現代詩フォーラム覗けば腐るほど転がってる。

旧作だからといって価値が減ずることもない

現代詩フォーラムのランダム表示機能を使うと分かるが、数年前に書かれた詩であってもいささかの価値も減じてはいない。そもそも出来の悪い詩は論外として、良い詩は年月を経ても、なお良い。新着を追っかけるようなことをしなくても、良いものはそこら中に幾らでも埋まっている。

詩はポップではない

新着詩を追っかけたりランキングに一喜一憂するのは、詩には馴染まないと俺は思う。そりゃそういうニーズもあるだろうし、いろんな切り口で詩を提示する事も必要だろうけど、それがさも重要な、第一義的な要素であるかのように取り扱ってはならんと思う。

詩は沈殿すればよい

そういった意味で、詩は「現代」という時流の奥底に沈殿すれば良いと思う。下手に浮かび上がると流され、妙な尾ひれを付けられ、何か別の目的のために利用されてしまうだろう。ひたすら沈殿し、「ただそこにある」。それでいいのではないか、と思えてならないのだ。

沈殿を攪拌する仕組みが必要だ

もちろん沈殿しっ放しではいけないので、沈殿した詩を掬い上げる、あるいは攪拌する仕組みが必要となる。例えば先にあげた現代詩フォーラムのランダム表示しかり、あるいはネット上に漂う数多の詩を係留し、必要なときに読み手の手元に届ける仕組みが。

詩は読み手と出会わなければならない

当然のことながら、詩は読み手が無ければ用をなさない。できるだけたくさんの読み手と出会うことも、詩を書く者にとっては重要なことだと思う。
だが、時と場所を越えて詩と読み手が出会う――邂逅と呼んでもよい――こと、この事が決定的に重要だと思えるのだ。積極的な読み手でない人間が、ふと一遍の詩に出会う。そして何かが生まれる。このプロセスをサポートするには、RSSフィードはあまりにもポップ過ぎるように思えるのだ。