pochitto’s blog

詩、雑感などを記しています。

組織におけるチームプレー、スタンドプレーについて

  • 組織は、その名の通り基本的にチームプレーを行う
  • 本来スタンドプレーはタブーのはず
  • もちろんいくつかの例外はある
  • けれど基本的にはチームプレーである
  • 組織において、個人の力のみで成果を挙げる事は不可能に近い
  • が、しかし
  • 比較的小規模な組織においては、スタンドプレー=目立ちたがり屋の方が評価が良い
  • チームプレーを重視する者は低い評価に留まる
  • スタンドプレーは賞賛され、やがてチームプレーは無視される
  • この状態が数年〜数十年続くとどうなるか
  • 組織の最初期には上位層に存在したであろうチームプレーヤーは、粛々と退場する
  • スタンドプレーヤーが組織の上位を占める事になる
  • チームプレーを重視していた者は、閑職に甘んじるか自主退社を余儀なくされる
  • そして当然のごとく、スタンドプレーヤーはスタンドプレーを好む
  • スタンドプレーヤーの再生産
  • チームプレーの軽視
  • 組織の力=チームの力の衰退
  • 組織の、ライフサイクルの終焉
  • 組織=チームという、ごく単純な事柄すら
  • 忘れ去らせるもの、それが組織

「自ら死を選ぶ」ということについての個人的な覚書

  • 「自ら死を選ぶ」という選択がその人にとってどのような意味合いを持つかは、人それぞれで異なる
  • けれど俺にとって「自ら死を選ぶ」という選択は、すなわち敗北を意味する
  • 己との闘いからの敗北、世間からの敗北、家族からの敗北、すべてを意味する
  • だから俺は俺自身に「自ら死を選ぶという選択をしない」という誓いを立てている
  • ここでいう「自ら」とは、肉体のみならず精神を指す
  • 肉体の、そして精神の死を自ら選択しない
  • それはつまり、現実を受け入れるという事に他ならない
  • 逆らいがたい現実を目の前に突き付けられようとも、決して逃げない
  • 極端な話、自ら死を選ばないというただ一点においてのみ、俺の存在意義があると言える
  • 以上

コントのような日常

ある日の進捗会議にて:

私(A)「○○の件ですが、その後の進捗状況を教えてください」
上司「ああ、それマダやわ」
私 「もう締め切りは過ぎてますけど・・・」
上司「そない早ぅでけへんわ。そもそもAはどないやねん」
私 「完了してます、報告書の通りです」
上司「どうせ手抜きで早ぅ終わらせたんやろ」
私 「違いますよ」
上司「そもそもこんな仕事に意味ないやんか」
私 「再三再四、この仕事の重要性については説明しましたが。まだ理解されてませんでしたか?」
上司「だからスマン悪かった言うてるやろ!」
私 「言うてませんやん」
上司「じゃあ今言うわ、スマンスマン悪うござんした。で、いつまでにやったら宜しいんでしょーか?」
私 「少なくとも今週中には間に合わせてください」
上司「ハイハイ、分かった分かった。もうエエやろ?」
私 「そうですね、色々ともうエエでしょうね」
私 「で、Bさんはどないです?」
年上の部下(B)「できてませんよ」
私 「何で」
部下「いえ、課長が『こんな仕事、何ヶ月かかるか分からん』とおっしゃっていましたので」
私 「課長のペースに合わせる意味は?」
部下「いえ別に」
私 「じゃあさっさとやったら?」
部下「ハイハイ、了解。今週中?」
私 「お前何勝手に線引きしてんの?明日までに頼むわ」
部下「無理ですが」
私 「何で?」
部下「ん?物理的に」
私 「『物理的』の遣い方がまるっきり・・・まあええわ、言っとくけど、あんた俺より時給高いんだからさ、そんな事言える立場じゃねーよ」
部下(無言でニヤニヤ)
私 「つーことで、皆さんヨロシクお願いします」
上司(ため息)「ハイハイ」
部下(ニヤけたまま退席)
私 (仕方ないのでニヤけながら退席)

Wikipediaつながり

何日か前のエントリで、Wikipediaにタグ云々書いたヤツの続き。
Wikipediaの本文から、学習支援用のキーワードマップを生成する方法をメモっておく。
いや、ムスコ(2才)もいずれ勉強せなアカン歳になるし、たぶんオレに似てビジュアルシンキングな脳ミソの筈なので、ちとでもサポートできればなぁと思って。

まずはマッピングに用いるデータの用意。

  1. 調べたい言葉を一つだけ用意。「白村江の戦」とか「惣無事令」とか「涼宮ハルヒの憂鬱」とか。
  2. Wikipediaにページが存在するか確認
  3. Wikipediaの該当ページ本文からリンクを抽出
  4. リンク先がWikipediaページの場合、#2を同様に繰り返す。
  5. リンクに用いられた言葉の、各ページでの使用数をカウント

続いて描画。

  1. ど真ん中にキーワードを置く
  2. リンクを放射状に配置。
  3. ゴニョゴニョゴニョ
  4. 完成

このキーワードマップに、自分なりの枝を追加できるようにすればなお良さげ。んでもって今時の流行りっぽくシェアできちゃうようにすれば、めちゃ便利だろうな、と。


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激流

ものすごい勢いでAjaxなWebアプリ開発用のライブラリやフレームワークがリリースされている。

なんつーか、個人的には激流に放り込まれた金魚状態です。
こんだけ流れ速いと、ついていけるのか激しく不安。

「凡人」と「非凡な人々」について

これもまた制約条件の違いによる差異に他ならない。非凡な人々が素晴らしい成果を挙げる時、凡人は小さな、あるいは大きな「事件」を起こすことである意味「成果」を挙げる。

事件の被疑者が時として「凡人」なのは、決して偶然ではないと俺は思う。彼らは自ら「制約条件」を変えることで、自らを表現する。
非凡な人々は先天的、あるいは後天的に獲得した有利な制約条件に沿って活動することで、制約条件を増強する。一方「凡人」は、平均以下の制約条件の元で活動する。制約条件を大幅に変更することは並大抵ではないので、その枠に収まり続けることがもっとも経済性の良い=賢い選択となる。ここで、制約条件を大幅に変更したい凡人はどのような活動を行うべきか。イチかバチかの賭けに打って出るのだ。それがどのようなタイミングで、どのようなシチュエーションで行われるかによって、賭けの種類は大きく変わる。いわゆる勉強ができるタイプの凡人は、受験というタイミングで。勉強が苦手なタイプは、その後の人生のどこかのタイミングで、それを行う。言っておくが、勉強が得意だろうが苦手だろうが、その知性に大した違いはない。あるのは制約条件の違い、ただそれだけだ。こうして一部の凡人は「非凡な人々」の仲間入りを果たす。

だが、非凡であるというのは概ね自己満足に過ぎないんじゃなかろうか。俺は見事なまでに凡人で、かつ非凡さに憧れる小市民だ。しかし、実力以上に非凡である必要があるのか、最近疑問を感じるようになってきた。それらはある制約条件がもたらしたささやかな出来事に過ぎず、とやかく言う程の価値も無いように思えてならないのだ。

だが、社会はそれらに価値を付加し続ける。その価値とやらに追随し、その価値を変動させ続ける事、それが凡人に課せられた使命か。んでもって、小さな「事件」でもってささやかな抵抗を見せる、と。
あーこれってこないだ書いた「儀式」っつー詩と限りなくリンクしてるな、今頃気づいたけど。

とにかく、仕事しながらこんな事ばかり考えている今日この頃。


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