pochitto’s blog

詩、雑感などを記しています。

擬態について

以前の日記(d:id:pochitto:20050421)で、自分(self)の中にたくさんのキャラクタが居て、多重人格ではないそれらは同時並行的に存在し、それぞれのコミュニティに所属する、というような事を書いた。
これって何かに似ているな、とずっと考えていたのだが、ふと「擬態」に似ている事に気づいた。

擬態(ぎたい)とは、生物やヒトが、その色彩や形、行動によって周囲の環境(地面や植物、他者等)と容易に見分けがつかないような効果を上げること。カモフラージュとも言う。保護色という言葉もよく似ているが、こちらは主に色彩だけでその効果を上げている場合に使う。

自演ではなく、擬態。周囲に溶け込む、違和感を感じさせないように紛れ込む、そのためにキャラクタを使い分けている。そう考えると分かりやすい。
状況=空気と読み替えてみると尚良い。
昨今のはてな界隈で喧しい「空気嫁」だの何だのも、擬態能力の問題だと気づく。
否定的な文脈で書けば、こうだ。

キャラの使い分けができない=空気が読めない

コミュニティに、別のコミュニティに所属するキャラクタが擬態せずに紛れ込むことで、「空気」が乱される。そして多くの場合、淘汰が働く。あーヤヴァイ。これってGAで解析できるかもしれませんよ奥さん。
逆に、肯定的に捉えることもできる。

キャラの使い分けができない=純粋、イノセンス、裏表ない人、子供のような人

つまりこうだ、自分(self)の擬態能力の強弱によって、空気が読める人そうでない人は色分けできる、という事だ。それは否定的にも取れるし、好意的にも取れる。


・・・と書いたが、この結論は浅い。もう少し勉強してから改めて考えてみよう。